他者の死を引き受ける 。たくさんの生を引き受ける。


その人の魂の中に、他人の人生が
タペストリーのように混ざって、
重なって一緒に生きている。

一人の人間の一直線のベクトルと、
発生する分岐点の様々な可能性。
そこには他人の死が入っている。

友人の死、子供の死、両親の死…
その誰かの死は、あなたの中で
まざっていく。

あなたの魂がそれを背負い込む。
生命と死のサイクルを背負い込むと
そのときはじめて、その人の人生の
中に、Y 軸が発生する。

人が誰かの死を、きちんと受け止め
ていない限り、時間軸は1本のみ。
それは時計の時間と一緒だ。

50年生きようと100年生きようと
リアリティしかない。
でも、人は多くの他者の死を
引き受けることによって、
沢山の直行ベクトルが発生する。

あなたが生きているリアルの X 軸
に対しての Y 軸、Z 軸。
何本でも直行成分が現れる。

2つの波が出会うのは瞬間。
でも二人はずっと生きていた。

その人の死が、とてもさびしく、
つらく残念になって思い出にな って
いく時、
その人はあなたの人生と絡んでる。

それは直行ベクトルのように、
また出会っていく。
あまり関係ない人はそんなに
悲しくない。

この悲しいか悲しくないかは、
主観にすぎない。マ インドがとても
繊細に、とてもセンシティブな要素
が高くなればなるだけ、
たくさんの“生”を引 き受けられる。

鈍感であれば、まわりでいくら
死んでもあなた一人が生きている。
一人のあなたしかいない。

個体で生きていたら、
他の人の幸せはどうでもいい。

一人で生き、一人で死ぬ。でも、
背負い込んでいる人生があったら、
その人のことを思ってあげられる。

「成仏してほしいなあ。
  天国に行ってほしいなあ」
色々な思いを持って生きていた何か
それを見取る目。観の目が必要。

感じ、受け入れ、私が人生のごとく
感じる力。死を厭うのではなく。
それは嫌だとわかった上で
鋼のごとく鍛えあげられていく魂。

多くの十字架を背負っているのだ。
過去の人生にも愛があり、
出会いがあり、友がいて、
子供がいて…人生があった。

過去世を 思い出すというのは、
自分の人生だけじゃない。
また過去世に興味を持つことも、
本当はちょっと違うのではないか?

どこまで行っても「あなた」なのか
このラインをどこまで継いでいこう
が、それはワイ ズマンではない。

過去の線分のベクトルをずっと過去
に延ばしても1本の線は1本の線に
すぎず、学習はない。

それはゾウの時間で死ぬか、
ノミの時間で死ぬかにすぎない。

今この時、花が萎み、蝶が死に、
ノミが死に、多くの命が
死に絶えている。今、ここで。

同時に、いまここで大きな命が
花開き、生を謳歌し楽しんでいる。

この瞬間、あなたがその共感力を
使えば、他の生命体が花開き萎む
ということが、360度展開する
マンダラと化す。命の森だ。

そこでは旅人が、息を引き取り
倒れ、藻屑と化し、土に溶け、
そこから樹木、花、何万年も命が
変遷して変わっていくかのような
命の森にいる、私だ。あなただ。

「まづもろともにかがやく宇宙の
  微塵となりて無方の空に
        ちらばらう」

宮澤賢治はいった。

これは命の森だ。ひとりの命が。
空間だ。時間だ。すべての命だ。

そのときあなたは、この場の中に
生きているすべての命とつながり
そのすべての生と死と愛とを
引き受ける。場として。

こういうことにすごく敏感だった人
はシュタイナー、宮沢賢治、そして
民俗学を作った南方熊楠。

皆、ワイズマンだ。 明治時代、
南方熊楠は故郷である紀州・和歌山
森の伐採の反対運動をしていた。

論文も書いた。その論文が素敵。
まさに「場としての生命」感覚を
持って生きている人だった。

ここで森を切るということで、
一体、何が起きるのか。

空間の広がりの概念と、未来に
向かっての時間のスケールが、
個人の人生を超えて考え、
感じられる眼、
観の眼を持っている。

もう一人、幸田露伴。
治時代の文豪・幸田露伴は
「望樹記(ぼうじ ゅき)」という
エッセイを書いた。

頭がいいというのは素敵なことなの
だと、本当にわからせてくれる。

1本の樹がそこにあるということ
から、文化や民族、都市政策から、
あらゆることがつながっていく。
1回読んで見てください。
それが観の眼だ。

僕らが見たら、樹は樹、物は物、
人は人、個体に過ぎず切り離されて
終わり。

そこに人がいて、
社会があって愛があって死があって
生きられる時間が限りがあり、
これから先もあり、自分が死んでも
続き…タイムスケールが違う。

100年後千年後まで見えている人は
智者になるしかない。